2005年5月21日(土)

待つこと

午前中、奥さんが大学関係の用事ででかけてしまったので、ひとりで子供ふたりを連れて近所のM幼稚園の開放日に出かけた。天気もよくまた年度の初日ということもあって、かなりのひとでにぎわっていた。

参加するのは3度目。ここはヴァルドルフ教育を取り入れている幼稚園(表立っては言ってないけど)で上の子の候補だったりするので、やはりどんな感じなのかというのは気になるところ。で、気になることがあったり。

ちょうど活動の終わりに子どもたちに手作りのお菓子とお茶が振舞われる時間というのがあるのだけど、先生とボランティア(在園児のお母さん)の方々はその時間が来ると何事もなかったかのように机やおもちゃを片付けていすを円くを並べ始めるのです。「もうすぐお茶の時間です」とか「いすを並べましょう」とかそういうことはまったく言わない。で、並べ終わると子どもたちがみんなそこにすわってお菓子を待つのだけど、「じゃあみなさんでお菓子を食べましょう」とも言わない。ただやおら先生が歌を歌いはじめるのです。でも子どもたちはそれですぐ静かになるわけでもなく、ざわざわした感じのまましばらく時間が経ってようやく少しずつ少しずつ先生の歌が聞こえるようになって、やっと「あぁ何かが始まるんだ」と思って静かになるのです。ここで僕はふと「先生がひとこと『みんな用意できたかなー』とか言えばきっと静かになるのになー」と思った自分がいて、んでもってそういうやり方にすっかりはまっている自分というのがわかって、ひとり苦笑してしまいました。

ちなみにそのあとも「いただきます」を言うのもやっぱり歌を歌ってみんながお菓子をもらってさぁ食べようという気分になるのを待ってそれから「いただきます」が来るのですね。おそらく万事この調子なのではないかと思えるぐらいに。

子安美知子さんが著書で「ヴァルドルフ学校に入れるのは大変(親の)勇気が要ることです」というようなことを書かれていたような気がして、それがどういう勇気なのかというのは正直理解できなかったのだけど、今回の一件を通してちょっとわかったような気がしました。

2004年4月10日(土)

育ちゆく子に贈る詩(不二陽子・人文書院)

育ちゆく子に贈る詩(うた)―シュタイナー教育実践ノート

現在、東京シュタイナー・シューレの上級学年講師を務める著者が、東京・町田(かな?)で主催していた小学生を対象としたヴァルドルフ教育のフォーラムでの活動記録をつづったもの。活動の中に誕生日に著者が子どもたちに詩を贈るというものがあり(実際のヴァルドルフ学校では1年の締めくくりに先生が生徒に通信簿とともに詩を贈るらしい)、それぞれの子に贈った6年分の一連の詩を取り上げながら、著者の思いと子どもたちの成長の軌跡が記されている。

今まで読んだ本は、ほとんどが海外(主にドイツ)での事例を取り上げたものだったり、ヴァルドルフ教育“を”学ぶことが主だったりしたが、この本は実際に日本でヴァルドルフ教育“で”学んだ実践の記録であり、ずっと具体的で身近に感じることができた。でもそれよりもなによりも、「あ、教育ってこういうものなのか」ということにはじめて気づかされた、とても印象深い本だった。

教育が何か知識や経験を教えることだったら、その道(国語、算数、理科、社会、などなど)のプロフェッショナルであればできるような気がする。でも、その子の話を聞いたり、友だちや親とのやりとりを観察する中で、本人もまだ気づかないその子の心の姿を知りそれに少しでも応える取り組みは、相応の訓練を詰み、さらに経験を詰んだひとでないとできないだろう。誕生日にその子の心に響くたったひとつの詩を贈る、という行為の中に、学問ではなく教育の本質が見えるように思った。親に出来ることもたくさんあるだろうけど、これだけはなぁ... 親・親戚以外の第3者の大人から言葉を贈られるというのはいい体験になりうると思うし、自分の子どももそういう大人と出会って欲しいと思います。

2004年4月 3日(土)

「モモ」(ミヒャエル エンデ・岩波書店)

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

「『モモ』を読む シュタイナーの世界観を地下水として」(子安美知子・朝日新聞社)を読んだのを受けて、「モモ」を読み直してみました。話の内容はおぼろげながら覚えていたとはいうものの、何せ20年前の話。また新しい気持ちで読むことにしました。

何はともあれお話の語り口(書き方)が優しいのがとても印象的でした。誰かが読み聞かせをしているのを聞いてるような感覚で読めるのです。例えば二章の終わり、モモの不思議な能力のエピソードの締めくくりではこう書かれています。

「さあ、これでもやっぱり、人に耳をかたむけるなんてたいしたことではないと思う人がいますか?そういう人は、モモのようにできるかどうか、いちどためしてみることですね。」

なんてことない一文なのですが、こういうふうに書かれるとどうだろうかと自分に向かってしばし考える余地が生まれてきます。こんなところが全篇にわたってあちこちにあるので、話の内容としては現代文明批判めいたものであっても、いわゆる“おはなし”として咀嚼することができるように思います。

またモモが灰色の男たちとの戦いに勝つことができたのは、モモの持つ不思議な能力のおかげだったのかと記憶していたのですが、そうではなかったのは意外でした。モモの友だちだったおとなやこどもはみんな灰色の男にいいようにされてしまって、たったひとり孤独になったところからモモ自身が持つ本当のちから(それは耳をかたむけるという能力の先にあるもの)が芽をふいたんですね。そしてモモ自身が芽をふかせたものは、何もモモが特別だからできたものではない。これはとても大事なことのように思いました。

なんか、ほんとこんな優しい話を読んだのはひさしぶりでした。この年齢になってもう一度読む機会が持てて、とてもよかったです。

2004年3月 2日(火)

「いつもいつも音楽があった シュタイナー学校の12年」(子安ふみ・音楽之友社)

いつもいつも音楽があった―シュタイナー学校の12年

僕には音楽の素養がまったくないし、趣味も極めて貧しいと言わざるを得ませんが、この本に書かれているような出会いがあったら何が起きていたかと想像すると、いったい今まで自分は何をやってきたのだろうと呆然となってしまいます。もちろん芸術体験や創造がすべてとは全然思いませんが、ひとりの人間の成長を考えるときに大きな力になってくれただろうことは確かだと思うのです。

「要するに人間は職業ではなく、親ではなく、まず人間として出来ていないと駄目だということだ。」

... その通り(汗;。

2004年2月22日(日)

「『モモ』を読む シュタイナーの世界観を地下水として」(子安美知子・朝日新聞社)

「モモ」を読む―シュタイナーの世界観を地下水として

ミヒャエル・エンデの「モモ」をシュタイナーのアントロポゾフィー(人智学)の観点から読み解く本。今まで読んだ本がどちらかというとシュタイナー教育そのものに焦点を当てていたのに対して、この本ではその哲学であるところのアントロポゾフィーそのものが顔を出していて(ちなみにシュタイナー教育ではアントロポゾフィーそのものを教えることを固く戒めている)、初めてその哲学の片鱗に触れたとも言える。そのものを感想として書くにはまだまだ知らないことがたくさんあるので、とりあえずひとつだけ。

本の中で、アントロポゾフィーの修行のひとつとして「一日の回顧」が何度か語られていたのがとても印象的だった。「モモ」にも床屋のフージー氏が灰色の男に「あなたには、毎晩ねるまえに十五分も窓のところにすわって、一日を思い返すという習慣がある」と指摘される部分で出てきている。今日一日のことを時間を逆に追って思い出してみるということなのだけど、試しにやってみるといつもいつも同じように過ぎていく朝の通勤の情景なども、きちんとその日の情景として思い出せることが意外だった。例えばそれは、朝乗った電車に乗り合わせていたひとがどうだったとか、そういう後から考えればまず思い出さないようなことまで、じつは覚えている。これ自体、アントロポゾフィーと関係なくてもいいことのように思えるので、しばらく続けてみようと思う。

ともあれ「モモ」ってそれほど奥深い話だったけ、というのがいつわらざる感想。読んだのが小学5年生のときだしそれ以来「モモ」を読むことはなかったから、とてもよかった、という以上の感想がなかったのは当然かもしれないけど、それは単にいまはまだ思い出せないだけかもしれない。20年前に何を考えて「モモ」を読んでいたのかということも含め、もう一度いま読み直してみようと思う。

2004年1月25日(日)

シュタイナー教育入門

とりあえず本を読んでみた。


  • 「ミュンヘンの小学生」(子安美知子・中公新書)
  • 「ミュンヘンの中学生」(子安美知子・朝日文庫)
  • 「私のミュンヘン日記」(子安文・中公新書)
  • 「日本<ヤーパン>の夏」(子安美知子・朝日文庫)
  • 「私とシュタイナー教育」(子安美知子・朝日文庫)
  • 「七歳までは夢の中」(松井るり子・学陽書房)
  • 「シュタイナー教育入門」(子安美知子ほか・学習研究社)

面白かった。

自分はおおよそシュタイナー教育と名のつくものには触れてこなかったと思う。でも記憶に残っている小学校とか中学校で受けたちょっと風変わりな授業の断片は、その考えの中で捉えると、ああそういうことだったのか、という気がしてくる。

ひとつは小学校のときの図工の時間。図工は絵が描くのが下手な僕は正直言ってあまり好きな時間ではなかった。ただ覚えているその授業はみんな同じ方法で空の絵を描くという授業だった。いつも使っている絵の具を思いっきり水で薄めて、ほとんど水に近い形で縦にした
画用紙に縞模様に色を塗っていくというものだった。一番上が一番濃くて、下にいくほど薄く、最後はほとんど画用紙の白と違わないぐらい薄く塗るという、ただそれだけのことをみんなでやった。すると、本当に画家が描いたようなきれいな空が描けた。自分で描いたものをちゃんときれいと思えたのは初めてだったと思う。あのときの驚きは今でも覚えている。

ふたつめは中学校の生物の時間にやった精密写生。植物の葉と昆虫の実物を見て、鉛筆一本で精密な博物画を描くという宿題。要するに絵の上手下手ではなく目の前にあるものを見てるか見ていないか、それだけの問題なのにずいぶん苦労した。頭で見ていると、いつのまにかそれはデフォルメされた形になっている。見ているようで見ていない。これは今でもときどきそういう自分に気づいてはっとする。

これがシュタイナー教育と関係あるのか、まだ勉強し始めた僕にはなんともいえないし、それをやっていた先生がシュタイナー教育のことを勉強していたかどうかは、今となっては確かめようがない。でもひとつだけ言えるのは、もう20年も昔のことになろうということを未だに覚えているという事実。そこには知識を得たことではなくて、実際に感じた驚きとか発見がいつもあったように思う。

とりあえずはもう少し勉強してみたい。