読書日記(1〜10件目)
by さかな

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著者Julia Alvarez出版社講談社読んだ日2004.4.17書いた日2004.4.22
感想両親の離婚のおかげで、ミゲルとファニータは住み慣れたニューヨークからママと一緒にヴァーモントに引っ越すことになった。パパだけニューヨークに残っている。ママはカウンセラーの仕事をみつけフルタイムで仕事をはじめた。子どもたちが学校から帰ってから遅くまで大人のいない家にいるのを心配し、生まれ故郷のドミニカに住んでいるロラおばちゃんにヘルプを頼んだ。ママのママが早くに亡くなったので、本物のお母さんのようにママを育てたおばちゃん。太陽にあったかく、料理がおいしく、ミゲルたちの気持ちをほぐしてくれる……。

あったかい大人のでてくる物語はいい。親という大人の都合でふりまわされた子どもが、すてきな大人に助けてもらえるお話。人柄だけでなく、料理もうまいとくると、もっとうれしい。ドミニカ料理ってどんなのだろう。メレンゲってどんな音楽だろう(これは訳者、神戸さんのサイトから読めるweb版あとがきからおすすめCDがリンクされているのでそれを聴いたら、うきうきする音楽だった)と、頭の中でいろいろ想像しながら、木内さんのこれまた味のある絵を楽しんだ。

著者栃折久美子出版社筑摩書房読んだ日2004.2.18書いた日2004.2.20
感想おすすめにチェックはいれたものの、さて人に薦めるとなると誰かしら。

ルリユールやブック・デザイナー、製本など個人的にわくわくする言葉を私は栃折久美子さんの本で知った。その栃折さんの――ありていにいえば恋の話が書かれている。森有正先生とゆかりの深い出版社につとめその縁で顔をあわせた。それから森有正著作の本を読みたくなり、ものすごい勢いで本を「食べ」始め、バカ食いで壊れたのは精神の構造だったと書いている。硬質な文章で書いているけれど、やわらかく書くと恋に落ちたのだ。しかしこの表現は微妙なずれがあるかもしれないが。相手の方が亡くなるまでの10年。それから27年たち、栃折さんは自分の「ルリユール工房」を後輩に譲り、自分自身の「アトリエ兼書斎」に戻る。その戻った場で最初の仕事をこの本を書くことに決めていたそうだ。出会いは1967年9月、栃折さんの仕事が軌道にのるまえのことだ。森先生にたのまれた事をきっちりとこなし、信頼を得、心をゆるされるようになる。そうしながら、栃折さんは自分の仕事も形にしていく。それは忙しさと比例して。
終わりは森先生の死だが、栃折さんが日々忙しくなり、1974年あたりから、文章にそう書いていなくても関係が遠くなっていく様が伝わってきた。
「お嫁さん」になったかどうかはともかく、先生の傍で暮らしていたら、「破滅」しないまでも、半端なことではつとまらない秘書役に、力をつくすのを生きがいと感じてしまい、自分の仕事はろくにしなかったのではないか。ここでいう仕事とは、自己表現、自己確認、自分が生きていること、生きてゆくことを、知るためのもの、という意味である。

著者Robert Bright出版社徳間書店読んだ日2003.12.15書いた日2003.12.19
感想グレゴリーは、グレンジャーむらで いちばんやかましくて げんきなおとこのこ――

ページを繰るとまっさきに、グレゴリーの元気な姿が目に入ります。うさぎとかけっこしても勝つくらい足の速いグレゴリー。(すごい!)なんと、干し草の山もひとっとび。(またまたすごい!)声も大きいし、力持ちだとみんなに自慢。そんなグレゴリーには、グレンジャー村でホットケーキを焼かせると右にでるものはいないという、すてきなおばあちゃんがいます。もちろん、グレゴリーもおばあちゃんの焼いてくれるホットケーキは大好き。「ホットケーキやいて!おなかがすいた!」とおばあちゃんの所に出かけていくグレゴリー。やさしいおばあちゃんは、「やいてあげるよ。でもそのまえにちょっとしてほしいことがあるの。」とお手伝いをお願いしようとするのです、言い終わらないうちに、グレゴリーはすっとんでいき、連れてくるのは、くまやろば。違うよ、グレゴリー。おばあちゃんの欲しいものは……。

一度読んだだけで、訳文がすっと肌になじみます。この翻訳は、この読書日記にも書かれていた方のデビュー作品です。物語を、それはそれはたくさん、自分にも子どもたちにも読んできた方が、今度は楽しい絵本を紹介してくださいました。元気いっぱいのグレゴリーは、ヤッホー!とまわりをハラハラさせながらも、休むことなく動いています。やんちゃな少年とあったかいおばあちゃん。ラストはとってもあまーい(?)です。

著者ブリジット・スマッジャ出版社文研出版読んだ日2003.11.7書いた日2003.11.7
感想ジュリアンはひとりっこ。家族はお母さんと、お母さんの婚約者のジャンポール。ちなみに、金魚にジャンポールという名をつけたのは、お父さんが黒い金魚をみて、作家のジャンポール・サルトルに似てるなぁと言ったから。一緒に暮らしていないお父さんは考古学者で年中あちこちを飛び回っているが、時間のある時はジュリアンとすごそうとしている。ジュリアンはお父さんが好きで、ジャンポール(こちらはお母さんの婚約者)は好きじゃない。
ある朝、起きてみると、金魚鉢の中のジャンポールは死んでいた。朝といっても、明け方のように早い朝だったので、お母さんもジャンポールもまともにとりあつかってくれず、そのうえ……。
少年の内面はこちゃこちゃと複雑で、それが夜の悪夢につながり大声をあげたりにつながっている。親たちは自分たちのことばかりにかまけていて、ジュリアンの内面になかなか気づかない。124ページで文字も大きくあっというまに読めてしまうけれど、少年の気持ちがよく伝わってきた。悪夢にうなされて起きてしまうというのは、寝不足にもなるので精神的なものだけでなく、体力的にも消耗するのですもの。この物語にはピアニストのグレン・グールドの名前もよく登場し、ジュリアンはこのグレン・グールドのピアノ曲をよく弾く。そうそう、グールドも演奏中に声をあげたりしているのだ。いまから10年以上も前に、グールド好きの人から即興演奏のテープをいただき、それから私もよく聴くようになった。訳者あとがきがおもしろく、「この本には、今ではフランスの子どもにもあまりなじみがなさそうな作家のサルトルやピアニストのグールドが登場し、読者はとまどいを覚えるかもしれませんが、これは原作者の好みとうけとめて、ジュリアンの心にそって読んでほしいと願います。」とあった。

著者大野朋子:編著出版社メディカ出版読んだ日2003.8.5書いた日2003.8.19
感想この本は大野朋子さんの編著で、インタビューに臨床遺伝医の長谷川知子さん、写真は宮崎雅子さんです。

『分娩台よ、さようなら』で、タイトルにあるように分娩台をつかわないお産をめざされた産科医の大野さんが、今度は、出生前診断など、命の生まれる前のことについて書かれた本。この2冊を簡単に紹介するのはむずかしい。私は上記の本で、文と写真に魅せられて、自宅出産を望み、3人めの出産をそうした。それはそれは幸せなよいお産だった。でも、だからといって、てばなしに自宅出産をすすめる本ではないのだ。新刊のこの本にはサブタイトルの「いのちの現場から出生前診断を問う」とあるように、出生前診断について賛成していない。命について、しっかり書かれている。宮崎さんの撮られる写真の子どもはほんとうにかわいい。ダウン症の子どもたちを育てている親たちのインタビュー、父親、母親それぞれに読ませる。また、医療そのものについても、非常に細かな注釈があり、興味深く読んだ。インフォームド・コンセントについても、なるほどと思う。可能性のあることを全部知って選ぶことは、世の中のことを全部知ろうと思うのと匹敵するほど、限りなく大変だといわれている。姪が3Pマイナス症候群(染色体の3番目がない、残念ながらこの本にも症例はのっていなかった)で、今年3歳になった。長く生きている症例があまりないらしいのだが、彼女はゆっくり成長して、先日会った時には、ずいぶん足がしっかりしていた。まだ歩くことも話すこともできないが、年の近い我が家のちーちゃんを指さして、2人でにこにこと遊んでいた。その姪に弟ができた。ひさしぶりに抱いた新生児のなんと小さいこと。姪も甥も元気にすこやかに育ちますよう。

著者梨木香歩出版社新潮社文庫読んだ日2003.7.7書いた日2003.7.8
感想偕成社から出ていたいた『りかさん』が新潮社文庫に入る。併録されているのが、「ミケルの庭」。この読書日記では、書き下ろしの「ミケルの庭」についての感想を書くので、タイトルはこれ。梨木さんの本を読まれている方ならば、この「ミケルの庭」が『りかさん』の続編でもあり、『からくりからくさ』の続編でもあることがすぐわかるだろう。ミケルは赤ちゃん、女の子。1歳を2か月くらい。お母さんはマーガレット。そう『からくりからくさ』で出てくるマーガレット。『りかさん』に出てくる、蓉子さんも登場。蓉子のおばあちゃんが遺した古い家に、マーガレットもミケルも、そしてあの時の女性たちが住んでいる。染色して、機を織って。でもこれはあくまでもミケルの話。ミケルが世界に対して感じ始めた空気を語っている。語る言葉は私たちが今話ししているようなものではないけれど。マーガレットが短期留学で留守の間、3人の女性、蓉子、紀久、与希子がミケルの世話をする。ミケルは風邪をこじらせ、3人は……
私事だが、4月の中頃、2年生になったばかりの子どもが、桜の木から落ちて額の骨を折った。深く裂けて血まみれの子どもをみた時は、その裂けているところから骨がみえるのではと思えたほど。「救急車には乗りたくない」と泣き、傷口をシャワーで洗い流し、消毒し、少し横になった。1時間後、彼は吐き、私は自分の運転する車で夜間みてくれる、総合病院へ行った。幸い、形成外科の先生が夜間当番でいてくれ、「かなり深いので縫いますね、お母さんは外へ出てください」と言う。彼は泣き言も泣くこともなく、5針縫ってもらった。診察室へもう一度入った時に、おでこの腫れがひどいので、レントゲンを撮りますと言われた。そして、「折れてますね、頭蓋骨骨折です。一晩様子をみるために入院しましょう。いま、脳外科の先生をよんできます」と。入院の準備など何ももってきていず、かといって、1人おいて家に戻るわけにもいかず、そのまま案内された病室へ、ベッドへ。私の寝るところなどもちろんないので、子どもと一緒にベッドに入る。疲れきり、おでこから目にかけてひどく腫れている子どもはすぐに横になった。何度も何度も顔をみていた。朝になったらなおっていないかな、とばかみたいな事を考えたりもしたが、朝になってももちろんそのまま。夜中、「つかれたー」と寝言が聞こえた。
たまたまこの事で、仕事が遅れ説明のために怪我の話をしたところ、その人が、この話を読んでいて、「もうすぐ出る書き下ろし短篇にも出てくるけれど、なにか事が起こってしまったら、いくら後悔しても、もとに戻せない「いたたまれなさ」が、子育てにはついてまわりますね。」とメールをくださった。「結果オーライで楽天的に切り抜けていかなくては」と。
そう、この木から落ちた時は、まさにその数分前に私は子どもと会っていたのだ。図書館から戻り、家の近くの友だちの家の前で遊んでいる子どもに。「もうちょっと遊んでいていい?」と聞かれ、「いいよ」と答え、家に戻ったら電話が鳴ったのだ。ばかみたいだけれど、あの時一緒に帰ろうといえばよかったと後悔した。してもしかたのない後悔を。子どもは子どもで「お母さんと一緒に図書館へ行ってたらよかった。」とも言っていた。でもでも、まさしく結果オーライで、桜の木から落ちたことによって、彼は桜の木はやわらかい事を知り、「今度は梅の木に登る」と言って、そうしている。骨はちょっとボコっとしているけれど、髪でかくれるのであまりわからない。擦過傷のあとが少し残っているが、まあ、こんなものだろう。 で、本にもどる。解説もよかった。この解説は主に『りかさん』にあてられている。日本人形の専門家が書いているのだ。私も小さい頃、人形遊びをよくした。母や祖母に人形用の服もたくさん作ってもらった。みんな捨ててしまったけれど、たっぷり遊んだことはよく覚えている。楽しかったなあ。

著者石田衣良出版社新潮社読んだ日2003.7.3書いた日2003.7.3
感想この人のタイトルは、ちょっと癖があってわかりやすい。 題名から想像できるように、4人の少年を順番に中心にすえた短篇連作集。小説新潮に書かれたものと書き下ろし含め8作品。 中学生、14歳の少年らの好奇心はセックス、女の子が一応のメイン。それにかける情熱は、なぜか少しうらやましいくらい。 吉田秋生の「川より長くゆるやかに」を思い起こさせる。
少年たちは、イロイロなやみ多きものを抱えつつ、でもまっすぐ。早老症にかかってすでに白髪のナオト。父親が飲んだくれで暴力をふるって苦労しているダイ。頭の回転がよくて、不倫サイトで人妻と出会うジュン。41キロプラスマイナス16キロの彼女をもっているテツロー。出てくる少年の友人らも、みんな丁寧に書かれている。 14歳って、窮屈で、大人の庇護を受けて、でも、自由になりたくて、お金がほしくて、もやもやしていることを思い出した。最後の「十五歳への旅」もベタでよかった。でもでも、ぜったいに戻りたくない年齢だな、うん。

著者Alistair MacLeod出版社新潮社読んだ日2003.2.26書いた日2003.2.28
感想カナダ、ケープ・ブレントン島で育った作者が31年間に書いた短篇16作のうちの8篇が収録されている。漁師や抗夫を生業とする人々、きびしい自然、その自分たちの島で生活をいとなむ姿が描かれる
多くの産業があるわけではない土地、周りは海、そうなると、こうして漁師や炭坑という仕事に就くことしか選択はなくなる。年を重ねてきた者には、それが人生と思い、まだ未来は長く大きいと思う者は外に出る。そうやって年月を重ね、血がつながっていく、自分の世界はこの海と穴。生活を等身大で描くこと、美化しないこと、しかし正確なデッサンは美しさを伴う。そういう短篇集。

著者Berlie Doherty出版社あすなろ書房読んだ日2003.1.20書いた日2003.1.21
感想骨太の物語だ。ピーター・ホリンデイルの『子どもと大人が出会う場所』にもこの本について書かれていると、やまねこの人から教わったので、『ホワイト・ピーク・ファーム』読了後、こちらも最初から読み通してみた。が、その話はあとで。
『ホワイト・ピーク・ファーム』は 農場に住む家族の物語。短気で自分を押し通す父親、だまって父親にしたがう母親、親ののぞまない結婚を実行する姉、絵の才能があるが跡継ぎという立場の兄、この物語の語り手であるジニー、そしてジニーと年のはなれた妹。短篇を連ねるように、章ごとに人生がある。はじめは祖母。これだけでも独立したお話のようだ、そしてこのお話が、のちの家族の心に種をまいている。いや、読み手にもその種はまかれるのかもしれない。祖母の印象的な言葉は、訳者のあとがきにも引用されている。「自分の内なる声に耳をかたむける」それは自分の声を聞くことにほかならないのだが、人の声を排除するものでもない。自分と話しをすることは、何よりも大事なのだということを伝えている。そうやって自分の生き方を選び取るのは、骨のおれること。でも、生きるということは、それなくしてはないのだと、この薄い本を閉じた時しみじみ思った。
しかし、表紙はないものとして読んだ方がいいと思う。どうしてこの物語にこういう絵がつくのだろう。残念。原書の表紙をみようとしたのだが、既に品切れ。

著者Maria D. Wilkes出版社福音館書店読んだ日2003.1.12書いた日2003.1.12
感想ローラのお母さん、キャロライン物語3巻め。クワイナー一家の物語。今まで住んでいた家を離れなくてはいけなくなる。お母さんは、離れた土地を買い求め、移り住む。今までのような快適な家ではなく、そまつな小屋のような住まいにキャロラインはがっかりする。おかあさんは、みんなの気持ちをひきたてるよう、細々と心遣いをする。次々と立ちはだかる難関。植えた作物が荒れた天気ですべてダメになる。そこで、一番近くの町へ職探しに行く一家。得た仕事は開拓労働をしている人たちにごはんをつくること。それも三度三度。男達の食欲はすごく、家族それぞれが役割を担いこなしていく。最後に少し春がみえてくるのがうれしい。
この時代、この場所では本当に「男」の力(腕力)が必要だっと思う。父さんという、力がなくなって子ども6人かかえて、このお母さんの働きぶりはすごい。子ども6人にそれぞれ暖かいまなざしを常にそそぎ、生活していく道を探す。「力」が必要な時は親戚に頼るがそれも最小限だ。この本に出てくる料理のあったかさ、湯気を感じるような描写。窓ガラスがどれだけありがたいか。今の自分の生活をふりかえる。子どもの時に読むのと確実に違うのは、大人になり親になり、生活や家族が当たり前に身近にあることだ。だからこそ、朝起きた時に寒くても、ストーブのスイッチをいれるだけで部屋が暖まることをありがたく思う。昨日、読んだ幸田文の「台所の音」で――(京都のおんなのひとの)優しさは一代こっきりその人だけという、底の浅いやさしさではないと思う。女代々伝えてきた、厚みのある優しさがうかがえるものだ、と(露伴から)教えられた。――(引用、かっこは私が補足)それを思い出す。キャロラインのお母さんの強さ、やさしさも、脈々とつながるものを感じた。充実した読後感。

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さかな
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