第2回世界ナウシカ会議 naucon '97
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今回も様々な企画がありましたが、そのうちの一部について簡単にまとめてみたいと思います。
○『もののけ姫』の世界展
『もののけ姫』の世界展入り口
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まず本会議に先立ち、新宿高島屋で行われていた「『もののけ姫』の世界展」に立ち寄ることにしました。本来ならばここで『もののけ姫』鑑賞の予定だったのですが、連日の混雑のためあえなく断念。急拠この企画に切替えました。この展示は、これまで行われてきた一連の「○○の世界展」と同様に、百貨店の催し物会場の一部を囲って会場が設けてあるものです。入場料は300円也。
率直な感想を言うと「これで良くお金を取るもんだ」という有り様でした。最初は『もののけ姫』のパネル展示やジオラマ展示なのですが、正直言って間に合わせで作ったような感じで、いやはやなんともお粗末。それに続く歴代宮崎作品の紹介もパネルとビデオを流すだけという感じでこれもお寒い限り。さすがにこれじゃ詐欺だなぁ...と思っていたら、最後に『もののけ姫』の設定資料や絵コンテのコピーの展示とセルの展示があって、これが唯一の救いでした。
絵コンテの方は、冒頭からアシタカがエミシの村を去るあたりまでを一挙に展示してありました。物語の導入となる密度の濃い部分だけに、見応えあり。絵コンテは相変わらずの書き込みぶりで、表現に関する実に細かい説明が加えられいます。3人娘とアシタカの会話の部分では「不安を表すように常に動かすこと」とか、アシタカがヤックルに飛び乗るところでも「乗りやすいようにヤックルの首を傾けること」など、そんな調子で続くわけです。また直接表現には関係ありませんが、タタリ神に向かってカヤが抜刀するシーンでは「さすがエミシの娘」と書かれていたりして、思わずにやにや。その他、CGでの効果を模索する注意書きも見られ、今回の作品の特徴として挙げられるでしょう。最近は絵コンテ集が発行されないだけに、 「もののけ姫」の絵コンテに触れる数少ない機会なのでよかったです。
出口では、もちろん『トトロ』を中心とした各種グッズが入場者を待ち構えていました(笑)。今回の「もののけ姫」では、コダマとタタリ神のぬいぐるみなどがあるのですが、なんでタタリ神なんでしょうね(笑)。せめてヤックルをぬいぐるみにしてほしかったなぁとか思います(1/1カヤとかそういうことは言わないので...(笑))。
○Video session1「夢用絵の具」「トップランナー」
宿での宴会終了後、持ち込んだビデオプロジェクターによるvideo sessionを行いました。
- 「夢用絵の具」(1997年7月3日NHK総合)
この番組は、ある色とそれに深く関係する人間像をテーマに構成されるシリーズなのですが、宮崎さんが出た回は黄緑がテーマでした。 『もののけ姫』を中心に『となりのトトロ』や『アルプスの少女ハイジ』まで、宮崎さんのアニメーションと自然の表現の関わりから、屋久島、照葉樹林、「栽培植物と農耕の起源」(中尾佐助 著・岩波書店)の紹介まで、幅広くしかもポイントを押えた内容。中でも、宮崎さんへのインタビューの中で「人間中心の生き方は止めて、人間と自然の生物の命を等価値に観なければいけない」「そこに飢えた子どもがいたとしても、この樹は切っちゃいけないという考え方を持たなければいけない」という様な発言が印象的でした。まぁこういう厳しいことを言う宮崎さんなのですが、時折見せる照れくさそうな表情がまたなんとも楽しそう。参加者から「こういうひとだからワンマンでやっていけるんだよね」というコメントがあり、まさに納得です。
- 「トップランナー」(1997年7月11日NHK総合)
この番組は公開録画形式のトーク番組で、ゲストが宮崎さんでした。この番組も過激な発言が飛び出すなかなか楽しい(笑)番組でした。中でも子どもとテレビの関係に関する部分で「6才までの子どもは仮想と現実の区別がつかない。だから『トトロ』を100回も観たというような話を聞くと、その子は子どもの頃にやるべきことを欠落させたまま成長してしまうのではないか。」「ビデオで『トトロ』を観るなら、年に1回、誕生日だけ観るとかそういうふうにしてもらいたい。」「(『トトロ』の)ビデオは売れないほうがいい。」などの発言が。まぁ宮崎さん自身は講演会などでこの手の発言を昔から述べていましたが、テレビで発言するというのは初めてではないでしょうか。何せ折しもブエナビスタから廉価版の『となりのトトロ』が発売された直後だけに、その心中たるや相当のドロドロした思いが詰まっているのではないかと思われました。また引退騒ぎに関しては「別に引退と言ったわけではなくて、一線から退くと言っただけ。」という注目すべき発言も。そして今後やりたい企画の1つとして『東京汚穢合戦』の話が出ました。これは江戸時代には「うんこ」というのは貴重な肥料で、お百姓さんがお金を払って汲みに来ていた。その江戸の「うんこ」を巡って千葉の百姓と多摩の百姓が縄張争いみたいなものをやるという話。「トイレの歴史とはどういうものかというのを含めて、短篇でギャハハと笑って回収ゼロ、そういう作品が作りたい。」とか。これに対して参加者からのコメントで「そういうことを言って気がつくと、5時間とかになっちゃんだよね」「それって『柳川堀割物語』と一緒(笑)」ありがちかもしれません。まぁシニアジブリの構想も含めて、まだまだ作品を作る意欲はあるみたいでですね。
あと1997年7月28日に日本テレビ系列で放映された「スーパーTV情報最前線」も予定していたのですが、機材の関係でお流れに。これもかなり濃い内容だっただけに残念でした。
○Main session『もののけ姫』本会議議事録
Video sessionにつづいて記念撮影あと、そのままMain sessionへと移りました。今回も特にテーマを決めたわけではなくて、話題は成行きのままに進行するというスタイルを取りました。よって本議事録は、会議終了後、三輪がメモを頼りにまとめたものであり、実際の会議の内容と完全に一致するわけではないことを御了承ください。また発言者の記録を取り忘れていました...ごめんなさい。
「『もののけ姫』という現象」
Topic1【「もののけ姫」が売れるわけ】
今回の会議を通じて大きな話題になったのが「なぜこんなにも『もののけ姫』が売れるのか」ということです。映画館に足を運ばれた方はその状況を良くご存知かと思いますが、公開初日の舞台挨拶には徹夜組を含めて2,000人を超える長蛇の列が有楽町マリオンを取り囲みました。その後も連日劇場に人が押し寄せ、1時間以上前に列ができるのは当り前で、土日には札止め(つまり物理的に映画館に収容できる人数を超えるため入場券を売らない)になるところもあります。ほとんど真夏のディズニーランド状態(笑)なわけですね。正直言って異常とも言えるこの事態に、嬉しいというより戸惑いのほうが大きいのは事実です。いったい何が起きているのでしょうか。
- 「なんだかわからないけれど何かありそうだ」
まず疑問に思うのが「いったいみんな何を求めて『もののけ姫』を観にくるのか」ということです。僕等のような宮崎駿のファンはともかくとして、いわゆる一般のひとはどういう理由で『もののけ姫』を観にくるのでしょう。様々な宣伝(テレビのスポットCMや新聞広告など)をみても、いったい『もののけ姫』がどういう映画なのかということを想像するのはちょっと難しいですね。また宮崎駿という名前があるにせよ、快活な冒険活劇でないことは「手や首が飛ぶシーン」でもわかるでしょう。また自然と人間というテーマについてみても、どう考えても今までの『トトロ』の世界とは違うのです。
「なんだかわからないけど何かありそうだ、というところに人々がやってくるのではないか」そんな意見が出ました。つまり今の世の中の流れとして、そういう「なんだかよくわからないもの」というものを求めているのではないかということです。世の中の不安を反映する1つの形ですね。そして、映画という娯楽に関しても単にエンタテイメントを求めるのではなく、そうではない面白そうな何かを求めているのではないかと。その「何か」にあたる部分は、あるときは『ナウシカ』のような世界であり、またあるときは『エヴァンゲリオン』のような世界であり、またあるときは『もののけ姫』というわけです。「単純に映画を1つの商品として考えたとき『エヴァンゲリオン』と『もののけ姫』の見え方は『なんだかよくわからないけど何かありそうだ』という点で結局同じなのかも」という意見もありました。
- 宮崎駿ブランド
最も大きな要因は、延々と築き上げられてきた宮崎駿というブランドの集大成として現れているのは言うまでもないことでしょう。それに加えて「宮崎駿の引退作品というのが拍車をかけているのでは」という話も出ましたが、世の中のひとがどれほど引退騒ぎ(宮崎さん自身は別に引退とは言ってないそうので、こういう表現にしておきます)を知っているかはともかく、これも一定の影響を与えているのは間違いないでしょうね。
- アニメーションに対する注目
この夏の『もののけ姫』以外の劇場用アニメーション作品として『THE END OF EVANGELION』がありますが、これとの相乗効果というものもあるのではないか、という意見が出ました。つまりアニメーションそのものをいろんな形でマスコミが取り上げるため、世の中のひとたちのアニメーションに対する注目というのが高まっているのではないかということです。注目されれば、当然足を運びやすくなる。例えばカップルや友達同士で映画を観ようとする場合でも、 その選択肢として上記2つのアニメーション作品が入りこんでいるのは間違いないでしょう。その場合『THE END OF EVANGELION』はそもそもテレビシリーズを観ていないと話がわからないなど敷居の高いものですが(その敷居の高さも受ける理由の1つだとは思いますが)、『もののけ姫』の場合はその敷居はとりあえず低いので初めてのひとでも大丈夫というわけです。『エヴァンゲリオン』の完結編が夏に延びると聞いた時点では、もろに『もののけ姫』とぶつかるのでどうなることやらと思っていたのですが、双方にとって意外な効果をもたらしたのかもしれません。
- 試写会との差
naucon参加者の中には試写会に行ったひとが何人が居るのですが、「試写会の状況を見る限りでは、こんなに当たるとは思わなかった」というのが共通した感想でした。映画が終ったあとも拍手は疎らで、盛り上がりにかける雰囲気。とてもじゃないけど60億は無理でせいぜい40億も行けばいいほうだろうという感じだったのです。ところが、蓋を開けてみると連日の混雑。このギャップはいったい何かということが話題になりました。これに対して「試写会に行く人間と実際に見に行く人間は違うんじゃない?」という意見が出ました。実際に見に行くひとは宮崎作品のファンに限らないより幅広い層というわけです。これが正しいとするならば『もののけ姫』は、より一般のひとたちに強くアピールしているということなのでしょうか。これまでも宮崎作品は客層を限定せずに常に新しい分野に挑戦してきたと言えますが、『もののけ姫』で初めて「アニメーション」ではなく「映画」というレベルで世の中が見るようになった、ということなのでしょうか。
- 周辺の理由
その他の理由として「単純に混雑による効果(列ぶものには列ぶ)」とか「他に観るものがない(特に若いひと)」ということも挙げられました。確かにこの夏の映画は大作が多く、洋画の大物の筆頭には『ロストワールド』が居座っていますが、前作『ジュラシックパーク』の続編であり、世の中に対するインパクトは少ないですね。『スターウォーズ』にしても同じ。邦画に至っては『THE END OF EVANGELION』以外に取り立てて話題になるような作品はありません。もし家族で映画を観るということになると『もののけ姫』を選択するのは必然と言えるでしょう。
- 結局
「なんで世の中のひとが見に行きたいと思うかは僕等にはわからないんじゃない」
「なぜ?」
「だって僕等は見に行くのに理由なんかないもの」
全くもってその通りで(笑)。
Topic2【アシタカとサン】
『もののけ姫』に数多く登場するキャラクターの中でも、今回はアシタカとサンという2人のキャラクターについて取り上げました。他のキャラクターについてもそうなのですが、『もののけ姫』ではどうもキャラクターそのものについての描き込みが少ない(意識的に描いていない?)ようで、それを反映した議論となりました。
- 狂信的に人間を憎むサン
この映画の題名『もののけ姫』であるところサンなのですが、話し合っていくうちに「結局なんだかよくわからん」という結論になってしまいました。特に「なぜあれほどまで狂信的に人間を憎むのか」ということです。サンの出生については、月光の夜にモロがアシタカに「おまえにサンの不幸が癒せるのか?」と問いただすシーンにおいて「我が牙から逃れるために投げてよこした赤子」と 説明されています。要するに単なる捨て子というよりは、明示的に森(モロ)に対して差し出されたというわけですね。狂信的に人間を憎むのはサンの不幸の裏返しである(モロもいうように「山犬にも人間にもなりきれない」)というわけなのですが、サンはその境遇についていったいどう感じていたのかは、具体的には描かれていないようです。
これについては、
- 仲間(シシ神の森に住むもの)としての意識
- 自分が人間だからという意識
- 親子の関係において(母親であるモロが憎むから自分も憎い)
- 家族の関係において(モロの一族としての意識)
など様々な意見が出ましたが、納得のいくものは得られませんでした。
サンは物語上の単なる記号だったのか、というような話しも出ましたが、キャラクターの居る背景についてもきちんと描く宮崎さんが、キャラクターそのものの背景を考えていないはずはないということで、単に描かれなかっただけなのではということなのですが...実際のところはどうなのでしょうか。
- サンが好きか?
少々煮詰まったところで、サンのような少女が好きか嫌いかという話題に。「(サンのような)計算とか打算のない女の子はいいかも...凶暴だけど(笑)」という好意的な意見と、「この子もうええわって感じであまり助けたいと思わない」という否定的な意見と別れました。「男を守ってくれるようには見えないキャラクター」ってことで、男の包容力を試されるような気がしますね。でもアシタカの衣服を裁縫したりするようなところもあったり...粗野だけどいいとこもあるのかも。
- アシタカという人間
今回は女性の参加者がいなかったので、「女性から見たアシタカ」という直接的な感想を聞くことができなかったのですが、世の中的にはアシタカという人間は女性に受けがいい、つまりもてるのです。アシタカというのは女性から見ればとりあえず理想像の1つの解なのかなという印象を受けました。
サンの存在よりはアシタカの方が輪郭がはっきりしているようです(まぁ主人公なので当り前なのですが)。アシタカの存在については「森に取り込まれたもの(森、神を絶対的な存在、従うべき存在であるという思い込みに支配されている)」という意見が出ました。これについては「アシタカという人間がそうだというよりは、アシタカの居たエミシの一族の人間たちに共通した考え方なのでは」という意見も出ました。人間を超越した存在を認める世界観を持っているということですね。とにかく妙に悟っているようなところがあるのは確かで、発言も行動も優等生的なのですが、厭味なところを全く感じさせない不思議な魅力があるように思います。
また余談ですが、アシタカという名前について「実際に静岡県沼津市に愛鷹(アシタカ)という地名があり、愛鷹という漢字がアシタカという人間を表しているのかもしれない」というような話も出ました。
- あの先の2人
アシタカとサン、2人は映画のあとどうなるのでしょか。映画はサンは森に戻り、アシタカはタタラ場に残ることで、二人はバラバラに別れて暮らすところで終っています。真っ先に出た意見が「通い婚」。夜な夜なアシタカはサンの元に通うという形態の夫婦ですね。「おまえ子ども産めよ」「うんっ」と言ったかどうかはわかりませんけど(笑)。
アシタカがタタラ場に残った理由なのですが「タタラ場の立場を考えるとアシタカは欲しい人材だよね」という意見が出ました。タタラ場にはエボシ御前が戻ったとはいうものの、片腕を失った今、以前と同様の行動隊長としての能力はなくなってしまったわけです。そこで若くて戦闘能力のある(しかも女たちにもてる)アシタカは格好の人材ということができるでしょう。一方のアシタカですが、所詮流れ者であることは変わりなく、サンとともに生きるにはなんとかそこで食べていく術が必要となります。アシタカがタタラ場を気にいったというよりは、お互いの利害関係が一致したと考える方が素直と言えます。
これに対してタタラ場と森の関係から再び衝突することになるのではないか、という危惧がありますが、これについても映画の中では何も語られていません。意見としては「シシ神の森は滅んだのだから、これから問題になるのは浅野(?)の侍の方では」というのがありました。これはもっともだと思います。依然としてサンとエボシ御前(タタラもの)の確執は続くものの、アシタカという橋渡し役ができることで、以前とは状況は変わるでしょう。また、サンにしてもアシタカにしても、お互いに相手を得たことで、生きていくということに対して前向きに進めるのではないか、そんなふうに思います。なんとも希望的な想像ですが、それを否定的に捉えることは『もののけ姫』の本意ではないでしょう。「わからない」んだけど「なんとかなる」と思うほうが楽しいじゃないですか。2人に子どもが産まれたとき、また新しい時代が始めるようなそんな気がします。
Topic3【映画の内容について】
実は意外とこの手の話は少なかったのですが...。
- 物語の流れについて
「やはり時間があまりにも足りないのでは」という意見が多かったですね。特に最大の山場である乙事主たちとエボシ御前や師匠連たちとの戦闘が、単なる回想シーンで終っているというのはちょっと肩透かしを食らったという意見も出ました(アシタカが現場にいなかったので深く触れられなかったとも考えられますが)。前半部分(特にタタラ場に到着するまでの流れは、寸分の狂いもなく緻密に計算されつくした構成と思えわれただけに、後半の迷走ぶりが際だってしまったのかなという気もします。宮崎さん自身ももう少し時間があれば(たぶんこの場合の時間とは上映時間のことでしょう)というような話をされてますが、これが限界ということで仕方がなかったのかもしれません。しかしながら、作りながら絵コンテをきるというようなスタイルで、よくも無事にまとめられたものだという意見もありました。
○本郷宣言「なんとかなる」
Bathroom session(お風呂の中での会議(笑))で協議ののち、朝食の席において今回のnaucon'97のまとめとして本郷宣言が採択されました。それは「なんとかなる」という言葉です。『もののけ姫』の「生きろ。」に対する答えとして選んだ「なんとかなる」です。ちょうど映画のラストでもおトキさんが「生きてりゃなんとかなる」というようなことを言っていたと思いますが、それに近いのかもしれません。どんなことでも、自らが「なんとかなる」と思って行動を起こすことが重要なのではないか、他力本願ではなく自分のできることをやっていこう、それが生きることなのだ、というちょっとかっこ良すぎる気もしますが、そういう意味を込めてこの言葉を選びました。人事を尽くして天命を待つ、いや天命をも変えよう。あなたは「生きろ。」に対して何を答えるのでしょうか。
○Optional Tour 宮崎駿『となりのトトロ』水彩画展
『となりのトトロ』水彩画展入口
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naucon'97終了後、Optional Tourとして東京・小金井の中村研一美術館で行われている「宮崎駿『となりのトトロ』水彩画展」に行きました。JR中央線の武蔵小金井駅から徒歩15分ほどの閑静な住宅街の中にある美術館です。玄関では、大きな木製のトトロの看板が出迎えてくれました。入場料は大人700円、学生300円也。
展示作品は『となりのトトロ』の初期のイメージボードからストーリーボード、 小説や関連書籍のために描き下ろしたイラストなど、かなりまとまった数の作品が展示されていました。まず目をひいたのはストーリーボード。僕はストー リーボードというのは、その物語の流れのポイントになる部分や、特徴的な場面のみを描いていくのかと思っていたのですが、ほとんど絵コンテに近い形で延々と初めから終りまで描いていくんですね。展示してあったのは、草壁家のお引越しの場面とドンドコ踊りの場面だったのですが、実に手際よくかかれた水彩画の中に細かい動きの指示などがあって、「きっとすごい勢いで描いていくのね」とちょっと驚きましたです。あと印象に残っているのは「トトロがいっぱいTOTORO」の本のために描かれた描き下ろしイラスト。場面は、雨の中バス停の前で父の帰りを待つサツキとメイです。サインを見ると「みやざき」と書かれた下に「'94」となっていて、『トトロ』の公開後、随分あとになって描かれた作品のようです。何か妙に惹かれるものがあるなあと思っていたら、一緒に行った近沢さんが「この青とか緑の色ってナウシカのあれと同じでしょ」と言うのです。なんのことかと思ったら、94年はちょうどナウシカの連載再開の年で、そのとき「アニメージュ」の表紙を飾った丘の上で一人たたずむナウシカの絵に使われた青や緑の色とそっくりなんですね。これは単なる推測に過ぎませんが、なるほどと思わせるものでした。本当に青と緑が透き通るようで、とてもきれいでした。
裏庭にある喫茶室
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帰り際に、美術館の裏庭にある喫茶室でひと休み。珈琲などを飲みつつ来年のnauconについての話など。暑い夏のちょっとしゃれた休日の気分ですね。最初の新宿高島屋のとは較べ物にならないぐらいよかったです。夏休み期間中は開催されていますので、お時間のある方は是非とも足をお運びくださいませ。
●これからの「世界ナウシカ会議」naucon
というわけで、第2回も無事終了しました。今回は『もののけ姫』の公開という実にタイムリーな時期に行えて、本当に良かったと思います。
さて、これからの「世界ナウシカ会議」がどうなるのか。『ナウシカ』も既に連載終了し、宮崎さんが第一線から退くと言った今、この先どうなるのかは誰にもわかりません。そのまま歴史の中に埋没していくのかもしれません。心の奥深くの記憶に留めておくのもいいと思います。もちろん、きれいさっぱり忘れてしまってもいいのです。ただ僕が思うのは、その場所がなくなって欲しくないなぁということです。年に1度ぐらいは、その思いを引っ張りだしてみる日があってもいいと思うのです。『ナウシカ』をはじめとする宮崎さんの作品は、それに足る作品だと思うのです。これからも年に1回、どんな形にせよ、「世界ナウシカ会議」nauconという場所を提供していければと思います。
しかし「世界ナウシカ会議」というのはあくまで場所であって、それはただの容れものに過ぎません。その容れものに入るのは皆さんの想いです。愛です。 どんなことがあっても万難を乗り越えて集うその気持ちです。それが続く限り、また「世界ナウシカ会議」も続くものと思います。
では、来年のnaucon'98でお会いできることを楽しみにしております。
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