みねこさんの読書日記(11〜20件目)
by みねこ

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現在、353件が登録されています。(最近読んだ11〜20件目を表示)
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著者waldrun Behneke出版社福武書店読んだ日2005.3.15書いた日2005.3.15
感想 ユタ・バウアーによるカラーの挿絵が魅力的。
 話の展開が、エピソードの羅列に感じられた。それはそれぞれに個性的な登場人物が結果、どこに収まっていくのか、というあたりの書き込みが足りないというあたりに起因するのかもしれない。

著者Joyce Stranger出版社あかね書房読んだ日2005.3.14書いた日2005.3.14
感想
飛行機事故で妻と娘をなくしてすっかり意固地になり共に残された息子に目を向けようともしないヘイミッシュ。農場の跡取としての人生を選ばなかった父に対して息子のダンカンは生き物と交歓しあうことのできる根っからの農夫。父との交流もないまま育ってきたダンカンのもとにラブラドール犬とマスチフ犬の雑種であるがゆえに素晴らしい資質を備えているのに冷たい仕打ちにあってきた犬のジェイスンがやってきます。

かたくなだった父は嵐の夜の遭難という不慮の出来事にさらされて、自らをふりかえり、息子との今後を希望を持って考えるようになります。犬のジェイスンが渾身の力をふりしぼってヘイミッシュを救い出そうと荒れた海をわたり、ダンカンの通う学校の寄宿舎にたどりつくくだりには心うたれます。

輪郭のはっきりしたオーソドックスな物語の持つ力を感じた1冊です。

著者Otfried Preussler出版社学研読んだ日2005.3.14書いた日2005.3.14
感想 ほぼ40年前に日本ではじめて紹介されたプロイスラーの物語。
 文末の解説で訳者の大塚勇三が書いている「プロイスラーは、ただ「うまい」という作家ではなく、よい作家だと私は思います。」に深くうなずける作品。ユーモアを交え、楽しく展開する話の中に正義、思いやり、優しさなどについて作者 のひととなりを彷彿とさせる見解がちりばめられている。とうとうと語られる説教口調の凡百の物語とはまったく違う形で。

著者Gudrun Pausewang出版社徳間書店読んだ日2005.3.14書いた日2005.3.14
感想 孫にひかせた荷車で最期の地に向かうおじいちゃん。その道々に出会った人々は、おじいちゃんがそれまでにかけがえのないおじいちゃんらしい生を 十全に生きてきたことを知っていた。
 生きるよすがとなるものを人はどうやって確認するのか、を語る、掌編ながら味わい深い物語。

著者Robin Klein出版社偕成社読んだ日2005.3.13書いた日2005.3.14

著者野田秀樹出版社新潮社読んだ日2005.1.13書いた日2005.1.14
感想観劇後、上演台本を読む。観た後に読む、ということで、舞台空間と身体表現とで言葉が意味を深め、新たな意味をはらみ、観ている者の想像力を喚起する、ということが実感できた。優れた絵本のテキストと絵の関係を思う。
今、ここにない何かに切なる憧れを抱き続ける芙蓉にこの戯曲がかかれた70年代半ばに読んでいた、北杜夫の本の扉に引用された「憧れを知るもののみ我が悩みをしらめ」という言葉やなだいなだの『しおれし花飾りのごとく』での繰り返し語られるのみで決して形にならない同人誌とそれをへめぐる人々が思い起こされたりする。そうしてふくらんだ思いを、凝縮、昇華させうる何かが野田の芝居にはある。
猥雑なもの、きわめて現世的なものをこれでもかとつめこんだ過剰なまでの言葉遊びの渦からふいにその中心に吸い込まれるような感じで芙蓉と共に「つかのまの向こう岸」にいるような、その感じ、に導く才を、享受してこられた幸せを上演台本を読み、その舞台を反芻しながら感じている。

著者Janet Lee Carey出版社理論社読んだ日2005.1.11書いた日2005.1.14
感想終始、父親の失業によって住み慣れた家を売り、故郷を離れることになったゾーイの苦難を書いた作品。ゾーイの家族は書店をたたみ、大学の教職も失った父親の職探しのために引っ越すことになるのだが、当初の何ヶ月かをワゴン車の中で寝泊まりして過すことになる。設定にどうにも腑に落ちない点がある。この家族、借家を借りるための初期費用、家賃2ヶ月分がなかなかつくれずにいるのだけれどそこに至るまでに持ち家を手放し、ガレージセールを開いている。これらのお金は、どこにいったのだろう?共同経営していた書店に債務があったのだろうか。それとも…。ゾーイの身のまわりのいろいろな出来事はベタな感じで連綿と書かれているのに、ゾーイの苦境の原因となった「住む家がない」という状況が、どうして引き起こされたのかについては何の言及もないのが不思議。
書かれてはいないけれど、やはりワゴン車での生活をせざるをえない事情というものがあったに違いない、としても、人目だけを気にして、育った街と、育った家の隣りに住んでいた幼ななじみに執着し続けるゾーイには共感を覚えない。

著者E.L.Konigsburg出版社岩波書店読んだ日2005.1.8書いた日2005.1.9
感想これまで何回か読んだ経験から、複雑にからみあった登場人物たちの関係を把握していないと、物語の機微を味わえない場面がでてきたりするのではないかと思い、4人の6年生を中心に家系図と相関図を描きながら読んでみた。
それでも40P付近までの読みにくさは相変わらず。
にもかかわらず、この物語が私を惹きつけてやまないのは、人と人とが真に出会うことの意味、人を生かし、生き生きとさせる場所の存在、そこに関わる素敵な大人がそこここに見られるぎこちない日本語を凌駕する魅力を持ってノア、ナディア、イーサン、ジュリアンの集う土曜日ごとのティーパーティーとして描かれているからに他ならない。
「第3の場所」を持つことの意味、持てることがもたらす 恵をこのシリントン荘での「ティーパーティー」ほど生き生きと描いた作品を私は知らない。4人が「博学競技大会」で勝ちあがっていく様子と、そこでの設問にまつわる4人の経験から、彼らの持っている問題や興味、家庭環境までもが浮かび上がってくる構成は見事。オリンスキー先生が深層にかかえもってきた問題をも、彼女がティーパーティーに参加する場面で浮き彫りにしてみせるあたりもこころにくい。

著者E.L.Konigsburg出版社岩波読んだ日2005.1.7書いた日2005.1.9
感想(書いた文章がどういうわけか入力されなかったので、覚えのメモ)
?初読に比べてマーガレットの存在と彼女が果たす役割が印象深い。その原因に訳者の違いが関係しているのではないか?
?『スカイラー通り19番地』の15年後のエピファニーを描いている、ということで、『スカイラー通り19番地』で読んだ、エピファニーの町の歴史や、歴史にまつわるエピソード等、よりふくらんだ意味合いをも含めて『13歳の沈黙』を読むこととなり、読後感が違ったものとなった。(ex 『スカイラー通り19番地」でふたりのおじさんが建てた塔が移築された丘のふもとに開発された新興住宅地で塔に通じる道路沿いの地域は「タワーヒル通り」と呼ばれるようになるのだが冒頭緊急通報されるブランウェルの住所は「タワーヒル通り198番地」)

著者Jerry Spinelli出版社理論社読んだ日2005.1.4書いた日2005.1.9
感想ポーランドのワルシャワゲットーが舞台のフィクション。
スピネッリが史実を検証しつつ創り出したであろう少年と彼をとりまく人々の物語にすんなり感情移入できないのはどうしてだろう。
この物語では、前後の背景など何も説明されずに、ゲットーで孤児たちの世話をし、運命を共にしたコルチャック先生が、読者に周知の人としていきなり固有名詞で登場する。少年は旧市街に小さい体を生かして、≪持ち込みや≫として侵入、獲得してきた食料を彼のところに届け続ける、という設定だ。
このエピソードは物語全体の中で、さほど重要な要素ではない。コルチャック先生のところに食料を運びこんだがために少年の運命が大きくかわるような出来事があるわけでもなし、常に寛容で笑顔で少年に接するコルチャック先生の人となりにふれて、彼が行動パターンを変えたり、何か考えはじめたりするわけでもない。ここでこの周知の固有名詞を、物語の背景に据えてしまうスピネッリに違和感を覚える。
読後、スピネッリが今、ワルシャワゲットーを描こうとした真意に触れたとは思えなかったのは何故だろう?両親を知らず、家庭も知らない、ジプシーの孤児である少年の面倒を見るウーリーの存在は魅力的に描かれているし、少年がある意味で無知であるがゆえに無垢なるものを残しているが故にユダヤ人の少女ヤーニナやヤーニナの父親に受け容れられていくあたりも心に触れるエピソードで あるのだろうな、と思いつつ、釈然としないものが残った作品だった。

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みねこ
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